2018/05/15
「肉体は不浄なるものを詰め込んだ皮袋」と言われているようであるが、心だけが自由自在であり、清浄であることができるという。
しかし、全くもって俺の心は不浄である。
そもそも仏以外にそんなことができる人間がいるのだろうかと思うのだが、普段、周りの奴らを見ても、全くもって心の不浄さは確認できない。
そのため自分だけが不浄なのではないかと考えてしまう。
大前提として、考えなしに不浄な行為におよび他人に迷惑をかける奴は本当の馬鹿であり、他人の迷惑にならないよう人知れず不浄な行為をするには、智恵や学習、訓練が必要となる。
その点においては、その不浄な考えや行動は人間に複利的な利益をもたらす。
しかしながら、清浄無垢な在り様には全くもって適わないと考える。
清浄無垢
清らかで汚れのないさま。 また、心が清らかで煩悩のないさま。
できれば不浄な行為は避けたいと考えているが、どうしても心の鍛錬が足りず行ってしまうののである。
人間だからこそ、不浄だ。
不浄だからこそ、人間なのだ。
また何をもって不浄というのか、清掃な行為で世の中生きていけるのか?
という疑問もある。
兎に角それが不浄な行為であろうがなかろうが、自分が不浄と感じている行為をした後は必ず後悔の念に襲われる。されどもその行為は無意識のなかで行われ、繰返し繰返し、気が付くとその行為に及んでいる。
その行為を短い時間で、傷の浅い状態で完結することに専念すれば、立ち直りも早く後悔の念も薄いと考えられる。不浄な時間も短ければ短いほど、清掃な行為に時間を費やすことができるのだ。
例えば、これまで一日に不浄な時間に一時間かけてしまっていたところ、10分で完結されれば、50分×一ヶ月(30)=1500分(25時間)、一ヶ月で約一日分の時間を有意義に過ごすことができる計算である。