2018/05/15
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人は死の恐怖から感情を遠ざけるために快楽を求め続けるのだそうだ。
本来生きるためだけであれば人に快楽という感情は必要なく、食事と睡眠さえあれば生きていくことが出来るはずであるが、この世の生物には感情というものがある。
糸井重里の有名なキャッチコピーを例に使えば「クウネル」の次にくる「遊ぶ」が生き物らしい感情と言えるだろう。
人間(生き物)は快楽を求めるために「遊ぶ」「美味しいもの食べる」「酒を呑む」、これらの行為が死の恐怖から感情を遠ざける行為ということだ。
死に対して、俺は生きているという実感するための快楽。
快楽は自我の消費により得ることが出来る。
自我は消費すれば、やがて無くなるのだろうか?
いやいや、自我が満たされると、人は更なる自我を求める。
人は自我が消えないように応急処置的に自我を作り出す。
快楽を求めるはずの感情が、人を時に苦悩に追い込む。
人の代表的な苦悩が「死」である。
自分の死、親族の死、友達の死
自死以外の「死」とは、単なる自然の事象であり、その事象に対して人が感じる「悲しみや苦しみ」は、単に脳が作っている物語(想像)であり、起こった事実は誰にでもいずれ訪れる「死」という自然事象である。
「生きていくのがしんどい」という感情の正体も、実は今現実に起きていない物語(想像)であり、脳が作っている将来の物語への恐怖である。
「生きていくのがしんどい」と感じている時点では現実ではない。
また死んだ後のことを考えるのは無駄な能力を使っているということなんだそうだ。
「魂が残る」など死んだあとも物語があるかのようなイメージ、死を対象としたビジネスなども多くあるが、死は圧倒的な断絶であり、「無」である。